知識の呪いは、あることを知ってしまうと、それを知らなかったころの自分の頭に、戻れなくなる現象です。知っている人は、知らない人がどこでつまずくかを、想像できなくなります。
上司の指示が伝わらない。マニュアルを読んでも分からない。専門家の説明が難しい。教えたとおりに、人が動いてくれない。どれも、もとは同じです。
この記事では、定義と有名な実験を先に書きます。そのあとで、人に教える側として、私が何度もこの穴に落ちた話と、いまやっている直し方を書きます。先に結論を書くと、知識の呪いは、気をつけても解けません。解けないので、相手の失敗を使って、穴を1つずつ埋めていく仕組みにします。
1. 知識の呪いとは
言葉を作ったのは、経済学者のキャメラー、ローウェンスタイン、ウェーバーの3人です。1989年の論文で、情報を多く持っている人が、情報を持っていない人の判断を予想するときに、自分の知識を頭から外せないことを示しました。取引では、知っているほうが有利だと考えるのがふつうです。ところが、相手の出方を読む場面では、知っていることが、じゃまになります。
1-1. 指でたたく実験
いちばん有名なのは、1990年に、スタンフォード大学のエリザベス・ニュートンが行った実験です。
参加者を、「たたく人」と「聞く人」に分けます。たたく人は、だれでも知っている曲を1つ選んで、そのリズムを、指で机をたたいて伝えます。聞く人は、曲名を当てます。
| 項目 | 結果 |
|---|---|
| たたく人が予想した、当たる割合 | 50% |
| 実際に当たった割合 | 2.5%(120曲のうち3曲) |
予想と結果が、20倍ずれました。たたく人の頭の中では、メロディが鳴っています。だから、指の音が、曲に聞こえます。聞く人に届いているのは、机をたたく音だけです。たたく人は、頭の中のメロディを、止めることができません。止められないので、「メロディなしで聞くと、どう聞こえるか」が、分かりません。
教える人と、教わる人のあいだで起きていることは、これと同じです。
1-2. 近い言葉との違い
| 言葉 | 中身 |
|---|---|
| 知識の呪い | 知っている人が、知らない人の頭の中を、想像できなくなる |
| 後知恵バイアス | 結果を知ったあとで、「はじめから分かっていた」と感じる。知る前の自分に戻れない、という点で同じ根 |
| 透明性の錯覚 | 自分の気持ちや考えが、実際よりも相手に伝わっていると思いこむ |
| ダニング=クルーガー効果 | できない人が、自分の力を高く見積もる。知識の呪いは、逆に、できる人の側に起きる |
| 生存者バイアス | うまくいった例だけを見て、判断する。「自分はこれでできた」を教材にすると、2つが同時に起きる |
2. よくある例
- 上司が「いい感じにまとめておいて」と頼む。上司の頭の中には、完成した形がある。部下には、ない
- 引きつぎの資料に、「いつもの手順で」と書いてある
- 社内の略語や、業界の用語を、説明なしで使う
- マニュアルの手順が、1つ飛んでいる。書いた人にとっては、当たり前すぎて、手順に見えていない
- 「なんでこんなこともできないの」と感じる。これは、相手の力の問題である前に、自分の側の呪いの合図
組織の中でいちばん痛いのは、最後の1つです。教える側には、説明が足りていないことが、見えません。見えないので、原因を、相手のやる気や力に置きます。置かれた側は、期待されていないことを感じとって、実際に成果が落ちていきます。この流れは、ゴーレム効果の記事に書きました。
3. 私の例①|自分が稼げたやり方を、そのまま教えた
私は、中古品を仕入れて売る仕事を、20年ほどやってきました。そのやり方を、人に教える仕事もしてきました。
はじめのころは、自分がやって稼げたことを、やった順番のまま、教材にしました。結果は、よくありませんでした。ランキングに入っていない古書を、目利きで仕入れる方法は、私には稼げる方法でした。教えた人の中から、同じように稼げる人は、出ませんでした。くわしくは、ロングテールの記事と、生存者バイアスの記事に書いています。
「目利き」という言葉が、まさに、指でたたく音でした。私の頭の中には、何年も店を回って見てきた本の背表紙が、入っています。「これは売れる」と感じるとき、その記憶が、メロディのように鳴っています。教材に書けたのは、「こういう本を見る」という、机をたたく音のほうだけでした。
4. 私の例②|人に作業を任せて、思いどおりにならなかった
ブランド品を本業の大きさで回していたころ、撮影と出品を、人に任せようとしました。これも、思いどおりには進みませんでした。人件費のほうが大きくなって、逆ザヤになった話は、パーキンソンの法則の記事に数字を書いています。
当時の私は、相手にも、自分と同じ仕上がりを求めていました。できないと、いら立ちました。いま考えると、順番が逆です。自分と同じ仕上がりを求めるなら、自分の頭の中にあるものを、ぜんぶ外に出してから、求めるべきでした。出していないものは、相手には、ありません。人を使う側に回って、うまくやれなかった話は、ピーターの法則の記事にあります。
5. 直し方|相手の失敗を、穴の地図として使う
知識の呪いについて、いちばん大事な性質は、これです。自分の説明のどこに穴があるかは、自分では見つけられません。頭の中のメロディが、穴を、勝手に埋めてしまうからです。読み返しても、穴は見えません。
穴の場所を教えてくれるのは、相手の失敗だけです。だから、私は、次の順番を、くり返しています。
- 教える
- 思いどおりにならない
- 「なぜ?」を考える。このとき、「相手のどこが悪いか」ではなく、「自分の説明に、何がなかったか」を探す
- 足りなかったものを、足す
- 足したものを、動画にする。マニュアルにする。テンプレートにする。次の人には、はじめからそれを渡す
- 次の人が、また別のところで、つまずく。3にもどる
1回では、終わりません。穴は、埋めるたびに、別の場所に出てきます。それでも、何度も回すと、だんだん、よい研修の仕組みになっていきます。
5-1. なぜ、動画・マニュアル・テンプレートにするのか
口で教えなおすだけだと、直したことが、次の人に引きつがれません。私の頭の中が、少し変わるだけです。そして、私の頭の中は、呪いがかかっている場所です。
| 形 | 向いているもの | 効く理由 |
|---|---|---|
| 動画 | 手の動き、画面の操作、物の見かた | 言葉にする前の、「当たり前すぎて、手順に見えていない動き」が、そのまま映る |
| マニュアル | 順番、判断の条件、例外 | 手順が1つ飛んでいると、その場で相手が止まるので、穴がすぐに見つかる |
| テンプレート | 文章、記録、報告の形 | 「いい感じに」をなくせる。うめるだけの形にすると、仕上がりのばらつきが消える |
3つに共通しているのは、説明を、自分の頭の外に出していることです。外に出したものは、直せます。直したものは、残ります。頭の中にある説明は、直したつもりでも、次に話すときには、もとに戻っています。
5-2. つまずきは、教材の不具合の報告
この順番で回すようになってから、相手のつまずきの意味が、変わりました。前は、いら立つ原因でした。いまは、教材の不具合の報告です。報告がなければ、直せません。
同じ場所で、2人がつまずいたら、それは、相手の問題ではありません。ほぼまちがいなく、説明の側の穴です。
5-3. 自分ひとりで、少しだけ穴を見つける方法
- その分野を、まったく知らない人に、読んでもらう。くわしい人に見せても、その人の頭の中のメロディが、同じ穴を埋めてしまいます
- 相手に、自分の言葉で、説明しなおしてもらう。「分かりましたか」と聞くと、「はい」が返ってきます。説明しなおしてもらうと、ずれている場所が分かります
- 何も知らない設定のAIに、手順書のとおりに進めさせて、止まった場所を言わせる
- 書いてから、時間をあけて読む。ただし、効き目は小さいです。何年もかけて身についた知識は、数日あけたくらいでは、頭から外れません
どれも、5の順番のかわりには、なりません。本物の相手が、本物の作業でつまずく場所が、いちばん正確です。
6. 売る側の文章でも、同じことが起きる
商品の説明や、販売ページでも、同じです。売る人は、商品のことを、知りすぎています。だから、読む人が最初に知りたいことを飛ばして、自分が話したい細かいところから、書きはじめます。
私の販売ページが、直すたびに長くなって、2万字から5万字をこえた理由の1つも、これでした。「これも伝えなければ」と感じるのは、自分がそれを知っているからです。読む人が、それを知りたいかどうかは、別の話です。いまの作り方は、コンテンツの作り方に書いています。
まとめ
- 知識の呪いは、知ってしまうと、知らなかったころの頭に戻れなくなる現象
- 指でたたく実験では、予想は50%、実際は2.5%。伝える側の頭の中でだけ、メロディが鳴っている
- 説明の穴は、自分では見えない。穴の場所を教えてくれるのは、相手の失敗だけ
- 思いどおりにならなかったら、「自分の説明に、何がなかったか」を探す
- 足したものは、動画、マニュアル、テンプレートにして、頭の外に出す。次の人には、はじめからそれを渡す
- 穴は、何度でも出る。出るたびに直すと、研修の仕組みになっていく
関連記事
- 生存者バイアスとは|自分が稼げたやり方を教材にして、起きたこと
- ゴーレム効果とは|ピグマリオン効果との違いと具体例
- ピーターの法則|できる人が、人を使う側でつまずく理由
- ロングテールとは|ランク外の古書で稼げた私と、教えた人の結果
- リンゲルマン効果とは|人数をへらしても、書かない人は書かなかった
- コンテンツの作り方|72通の講座を1か月で作った手順
- ジャムの法則(決定回避の法則)とは|松竹梅の3つをやめて1つにしたら、売れた理由
- 後知恵バイアスとは|「あのとき売らなければ」は、判断の反省になっていない
- 完璧主義とは|直すのは性格ではなく、順番
- 感情労働とは|意味と具体例。20年1人で働いても無縁ではなかった。「評価を消したら返品する」と言われた日の話
- ダニング=クルーガー効果とは|意味と、あの曲線のあやまり。「全員がやるべきだ」と思っていた私は、上位側のまちがいをしていた
- マイクロマネジメントとは|意味と特徴、やめ方。「した側」の私は、だれも育てられず、事業を逆ザヤにした
- キャズムとは|意味と具体例、こえ方。自分にはかんたんな修理が、教える相手にはかんたんではなかった話
- ダブルバインドとは|意味と例をわかりやすく。「自分で考えろ」を言われた側と、言った側の両方をやった私の話

コメント