ラチェット効果は、いちど上がったものが、下がりにくくなる現象です。ラチェットは、片方向にしか回らない歯車のことです。工具のラチェットレンチや、結束バンドの、あの仕組みです。
この言葉は、2つの場面で使われます。1つは、家計です。収入が下がっても、生活の水準は、すぐには下がりません。もう1つは、組織です。目標を達成すると、次の目標が上がります。だから、わざと達成しすぎない人が出てきます。
この記事では、2つの意味を先に整理します。そのあとで、私の例を2つ書きます。1つは、浴室のサイズです。もう1つは、事業の固定費です。最後に、歯車を逆に回そうとせずに、どう対処するかを書きます。
1. ラチェット効果とは
1-1. 家計のラチェット効果(歯止め効果)
もとは、経済学者のデューゼンベリーが、1949年の本で示した考え方です。人の消費は、いまの収入だけでは決まりません。過去にいちばん高かったときの収入と、そのときの暮らしに、引っぱられます。
だから、景気が悪くなって収入が下がっても、消費は、同じ割合では下がりません。貯金をくずしてでも、暮らしを保とうとします。下がるのを止める歯止めになるので、日本語では「歯止め効果」とも呼ばれます。
国全体で見ると、これは、景気の落ちこみをやわらげる働きです。個人で見ると、収入が下がったときに、家計が先にこわれる原因です。
1-2. 組織のラチェット効果(目標のつり上げ)
もう1つは、経営や、組織の経済学で使われる意味です。
今年の実績が、来年の目標の土台になる。この仕組みの下では、がんばって目標を大きくこえると、来年の目標が上がります。上がった目標は、下がりません。それが分かっている人は、目標を「少しだけ」こえたところで、手を止めます。
もとは、旧ソ連の計画経済で、工場がノルマをこえすぎないように生産をおさえた現象として、研究されました。いまの会社でも、営業の目標、部署の予算、出来高払いの単価で、同じことが起きます。予算を使い切らないと来年の予算をけずられるので、年度末に使い切る。これも、同じ歯車です。
| 場面 | 上がるもの | 下がらない理由 | 起きること |
|---|---|---|---|
| 家計 | 生活の水準 | いちばん良かったときが、基準になる | 収入が下がっても、支出が下がらない |
| 組織の目標 | ノルマ、目標の数字 | 実績が、次の目標の土台になる | わざと、達成しすぎない |
| 予算 | 部署の予算 | 余らせると、来年けずられる | 年度末に使い切る |
| 事業の固定費 | 人件費、家賃 | 人や契約は、すぐには減らせない | 悪い月に、足りなくなる |
1-3. 近い言葉との違い
| 言葉 | 中身 |
|---|---|
| ラチェット効果 | いちど上がった水準が、下がりにくい |
| 現状維持バイアス | 変えたほうが得でも、いまの状態を選び続ける。上にも下にも、動かない |
| パーキンソンの第2法則 | 支出は、収入の額まで膨らむ。上がるときの話 |
| 快楽順応 | 良くなった暮らしに、すぐ慣れて、うれしさが消える。ラチェット効果の、もとにある性質 |
| グッドハートの法則 | 数字を目標にすると、数字が役に立たなくなる。目標のつり上げと、よく同時に起きる |
パーキンソンの第2法則とは、対になっています。収入が上がると、支出が追いつく。これが、第2法則です。収入が下がっても、支出は下がらない。これが、ラチェット効果です。2つが合わさると、支出は、上にしか動きません。第2法則のほうは、パーキンソンの法則の記事に書きました。現状維持バイアスは、現状維持バイアスの記事にあります。
2. よくある例
- 年収が上がったときに上げた家賃を、年収が下がっても、下げられない
- いちど速い回線、新しいスマホ、食洗機を使うと、前のものに戻れない
- ボーナスを前提に組んだローンが、ボーナスが減った年に、重くなる
- 営業で、月の目標をこえそうになったら、残りの契約を来月に回す
- 出来高払いで、がんばって数を出したら、1個あたりの単価を下げられた
- 年度末に、部署の予算を使い切る
下の3つは、なまけているのではありません。「がんばると、基準が上がって、あとで自分が苦しくなる」と分かっている人の、合理的な守りです。悪いのは、人ではなく、実績をそのまま次の目標にする仕組みのほうです。数字を目標にしたときに起きるゆがみは、グッドハートの法則の記事に、私の失敗を書きました。
3. 私の例①|浴室が、1600から1350になった
私は40歳まで、親が買った月島の分譲マンションに住んでいました。そのあと、横浜の東戸塚に移り、いまは、海浜幕張の賃貸に住んでいます。
3つの家の、浴室のサイズを並べます。
| 住んだ場所 | 浴室のサイズ |
|---|---|
| 月島(親が買った分譲。かなりのグレードの部屋でした) | 1600以上 |
| 東戸塚 | 1450 |
| いまの家 | 1350。足が伸ばせません |
私は、もともと、風呂が嫌いでした。だから、部屋を探すときに、浴室を見ていませんでした。一人で暮らすようになってから、風呂が大事だと分かりました。そして、月島の浴室がどれだけすごいものだったかも、出てから分かりました。
月島にいた22年のあいだ、私は、あの浴室を「ふつう」だと思っていました。ぜいたくをしている感覚は、ありませんでした。歯車は、音を立てずに回ります。上がっているあいだは、上がったことに気づきません。気づくのは、下げようとして、歯が引っかかったときです。
私は、これを「文明は不可逆」と呼んでいます。我慢が足りない、という話ではありません。基準が、ずれてしまうのです。そして、ずれた基準は、戻りません。
3-1. 下げることは、できた。ただし、不満は消えない
正直に書きます。私は、実際には、下げています。1600から1450へ。1450から1350へ。
そして、暮らしの全体は、良くなりました。東戸塚は、幹線道路ぞいで、眠れませんでした。いまの家は、部屋が13㎡狭くなって、1部屋減って、風呂で足が伸ばせません。それでも、街と、契約の形と、毎月出ていく金額が良くなったので、差し引きではプラスです。実額は、賃貸探しで本当に高いのは家賃ではありませんに書きました。
ここから分かることが、2つあります。
1つ目。ラチェット効果は、「絶対に下げられない」ではありません。下げられます。ただし、下げた項目の不満は、慣れで消えません。私はいまも、湯船に入るたびに、足が伸ばせないことを思い出します。
2つ目。どの項目に歯車がついているかは、人によって違います。そして、上がっているあいだは、自分でも分かりません。私の場合、部屋の広さには、歯車がついていませんでした。83㎡から70㎡になっても、困っていません。ついていたのは、浴室でした。風呂が嫌いだった私には、予想できませんでした。
3-2. 買うことの怖さは、ここにある
家を買うというのは、いまの自分の基準に合わせて、数十年ぶんを固定することです。ところが、基準のほうは、上がり続けます。建物の性能の基準も、自分の基準も、です。固定されているのは、買った建物だけです。この話は、持ち家に42年住んだ側の答えに、数字つきで書きました。
4. 私の例②|利益が下がっても、人件費は下がらなかった
事業でも、同じ歯車を回しました。
2019年から2022年ごろ、私は、ブランド品のバッグを仕入れて、直して売る仕事をしていました。人件費を引く前の利益は、月に80万円から200万円。月によって、大きく動きます。
利益が出るようになって、人を増やしました。社員1人とアルバイトで、人件費は月に45万円から50万円。自分の給与として取りたかった額が、100万円。合わせて、月に145万円から150万円です。
| 月 | 人件費を引く前の利益 | 出ていく額 | 差し引き |
|---|---|---|---|
| 良い月 | 200万円 | 145万〜150万円 | +50万〜55万円 |
| 悪い月 | 80万円 | 145万〜150万円 | −65万〜70万円 |
利益は、月ごとに、上にも下にも動きます。人件費は、上にしか動きません。利益が80万円の月だからといって、その月だけ、人にやめてもらうことはできません。自分の取り分も、いちど「100万円」と決めると、それが基準になります。80万円の月は、「20万円足りない月」に見えます。
いちばん良かった月に合わせて、歯車を回してしまった。ならすと、逆ザヤでした。固定費がいくらだと、何点売らなければならないかは、損益分岐点の記事で計算しています。
5. 守り方|歯車は、逆に回さない
ラチェットは、逆には回りません。だから、「節約をがんばって、少しずつ下げる」は、うまくいきにくい方法です。毎日、歯に逆らうことになるからです。私がやって効いたのは、下の4つです。
5-1. 回す前に、考える
毎月出ていくもの、毎日使うものの水準を上げるときは、こう自分に聞きます。「収入がいちばん悪い月でも、これを続けられるか」。続けられないなら、上げません。上げるのは、かんたんです。だから、考えるのは、上げる前しかありません。
5-2. 上がった収入は、戻せる形で使う
旅行、道具、学ぶための費用。1回で終わる支出には、歯車がつきません。家賃、人件費、月額の契約。毎月くり返す支出には、つきます。良い月の利益は、1回で終わるものに使います。人の手が要るなら、毎月の給与ではなく、1件ごとの外注にします。
5-3. 自分の歯車が、どこについているかを知る
私の場合は、浴室でした。広さでは、ありませんでした。歯車がついていない項目は、下げても痛くありません。ついている項目は、下げると、ずっと痛みます。だから、けずるなら、ついていない項目からです。
私は、次に住む街の候補を、名古屋にしています。安いからではありません。月島で育った自分にとっての、「これより下げると、満足度が落ちる線」を割らない街だからです。下限を先に決めておくと、安さにつられて、歯車に逆らう選択をしなくなります。
5-4. 下げるときは、歯車ごと外す
事業の固定費について、私がやったのは、けずることではありません。固定費がほとんどかからない仕事に、移ることでした。いまの仕事(書いて、教える)で、毎月かならず出ていくのは、サーバー代と、メールの配信スタンドで、合わせて月に4,400円です。
月に145万円が出ていく形を、少しずつ130万円、120万円とけずっていくのは、歯に逆らう作業です。人がいて、取引先があって、自分の取り分の基準があります。形そのものを変えると、古い基準とくらべる相手が、なくなります。住む場所も、同じです。同じ街で部屋のグレードだけを下げるより、街ごと変えたほうが、前の部屋とくらべなくなります。
5-5. 組織の中にいる人へ
目標のつり上げは、個人の力では止められません。仕組みの問題だからです。目標を決める側にいる人は、今年の実績を、そのまま来年の目標の土台にしないこと。大きくこえた人の目標は、数年は上げないと、先に約束しておくこと。これがないと、いちばんできる人から、力をおさえるようになります。
目標を受ける側にいる人は、自分を責めなくていい、ということだけ書いておきます。こえすぎないように調整するのは、その仕組みの中では、ふつうの反応です。
まとめ
- ラチェット効果は、いちど上がったものが、下がりにくくなる現象。家計の意味と、組織の目標の意味がある
- 上がっているあいだは、気づかない。気づくのは、下げようとしたとき
- 下げることはできる。ただし、歯車がついている項目の不満は、慣れで消えない
- どの項目に歯車がついているかは、人によって違う。私は、広さではなく、浴室だった
- 毎月くり返す支出は、いちばん悪い月に合わせる。良い月の利益は、1回で終わるものに使う
- 下げるときは、少しずつけずるより、形ごと変える

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