現状維持バイアスは、変えたほうが得だと分かっていても、いまの状態を選び続けてしまう心の働きです。変えることで失うものが、変えることで得るものより、大きく見えるために起こります。
この記事では、定義と、よくある例を先に書きます。そのあとで、私自身の例を4つ書きます。ぜんぶ、住む場所の話です。1つ目は、気づくのに20年近くかかりました。4つ目は、いまも進行中です。この記事を書いている時点で、私はまだ引っ越していません。
4つを並べると、分かることがあります。このバイアスは、経験を積んでも消えません。言い訳のほうが、賢くなっていくだけです。
1. 現状維持バイアスとは
名前をつけたのは、経済学者のサミュエルソンとゼックハウザーです。1988年の論文で、実験の参加者に、いくつかの選択肢から1つを選ばせました。中身が同じ選択肢でも、「いまはこれになっています」と書きそえただけで、その選択肢を選ぶ人が増えました。大学の職員が、健康保険のプランをほとんど見直さないことも、実際のデータで示しています。
近い言葉と並べると、こうなります。
| 言葉 | 中身 |
|---|---|
| 現状維持バイアス | 変えたほうが得でも、いまの状態を選び続ける |
| 損失回避 | 同じ金額でも、得する喜びより、損する痛みを大きく感じる。現状維持バイアスの、もとにある性質 |
| 保有効果 | 自分が持っているものを、持っていないときより、高く見積もる |
| デフォルト効果 | はじめから選ばれている選択肢が、そのまま選ばれやすい |
| コンコルド効果 | すでに使ったお金や時間がもったいなくて、やめられない。見ているのは「過去に払ったもの」 |
コンコルド効果との違いは、見ている方向です。コンコルド効果は、過去に払ったものを見ています。現状維持バイアスは、これから失うかもしれないものを見ています。何も払っていなくても、起こります。
デフォルト効果で有名なのは、臓器提供の同意率です。「提供しない人が、申し出る」方式の国では、同意率がとても高くなります。「提供する人が、申し出る」方式の国では、低くなります。国民の考え方の差ではありません。はじめにどちらが選ばれているかの差です。人は、それほど、はじめの状態を動かしません。
2. よくある例
- 携帯、光回線、電気の契約を、何年も見直していない
- 使っていない月額サービスを、解約していない
- 入ったときのままの保険を、払い続けている
- 合わないと分かっている職場に、「次が決まってから」と言いながら、探さずにいる
- いつも同じ店で、同じものを頼む
最後の1つは、害がありません。むしろ、考える手間がはぶけます。現状維持は、たいていの場面で、正しい省エネです。
問題になるのは、毎月お金が出ていくものと、毎日の体調にひびくものです。放っておいた月数だけ、損が積み上がります。通信費と電気の見直しについては、携帯、光回線、電気の記事に、私の実測を書きました。
そして、毎月出ていくお金がいちばん大きく、毎日の体調にいちばんひびくのが、住む場所です。ここから、私の例を書きます。
3. 私の例①|月島。気づいていなかった22年
私は40歳まで、親が買った月島のマンションに住んでいました。22年です。
不満があって動けなかった、という話ではありません。「ほかの場所に住む」という選択肢が、頭の中に、そもそもありませんでした。
私の仕事は、ネットで売り買いをして、文章を書くことです。通う会社はありません。どこに住んでいても、できます。それなのに、自分の働き方が、住む場所にしばられていないことに気づくまで、20年近くかかりました。
現状維持バイアスの、いちばん深い形は、これだと思っています。「変えるか、変えないか」で迷っている人は、まだ軽いほうです。重いのは、迷ってすらいない状態です。選択肢として見えていないものは、くらべることもできません。
月島の部屋は、いい部屋でした。それがどれだけいい部屋だったかも、出てから分かりました。くらべる相手がいないと、良さも、悪さも、分かりません。
4. 私の例②|東戸塚。「慣れるかもしれない」
月島を出て、横浜の東戸塚に住みました。幹線道路ぞいの部屋で、車とバイクの音が、24時間入ってきました。
無理だと判断したのは、住んで2か月の時点です。出たのは、1年後です。
あいだの10か月、自分にこう言っていました。「もう少し住めば、慣れるかもしれない」。
慣れませんでした。眠れなくなりました。最後は、違約金を払って出ました。
月島とちがうのは、今度は、気づいていたことです。気づいた上で、動かない理由を、自分で作りました。「慣れるかもしれない」は、確かめようがありません。確かめようがないので、いつまでも使えます。引っ越したばかりでまた引っ越すのは、お金も手間もかかります。その痛みをさけるために、頭が出してきた理屈です。こういう、あとづけの理屈については、認知的不協和の記事に書きました。
ここで学んだことは、1つです。体が先に答えを出しているときは、頭の理屈のほうを疑う。眠れないのは、「慣れるかもしれない」より、強い証拠でした。
東戸塚の部屋と契約の実額は、賃貸探しで本当に高いのは家賃ではありませんに書いています。
5. 私の例③|海浜幕張。「収入が上がってから」
東戸塚のあと、海浜幕張の、住宅供給公社の賃貸に移りました。いまも、ここに住んでいます。
次の候補は、名古屋です。条件を入れて、AIに何度も分析させました。入れる条件を変えても、聞くAIを変えても、結論は同じです。名古屋のほうがいい。私自身も、そう思っています。
それでも、まだ動いていません。いま、自分に言っているのは、これです。「収入が上がってから、引っ越そう」。
東戸塚の「慣れるかもしれない」より、ずっと、まともに聞こえます。お金に余裕を持ってから動くのは、堅実な判断に見えます。だから、たちが悪い。
「上がってから」に、いくらになったら、という数字と、いつまでに、という期限がついていなければ、これは条件ではありません。先送りです。そして、住む場所の不満は、仕事の調子にひびきます。「収入が上がってから住む場所を変える」のか、「住む場所を変えるから収入が上がる」のか。順番が逆かもしれない、と分かっていて、まだ動いていません。
名古屋を候補にした経緯と、くらべた数字は、持ち家に42年住んだ側の答えに書きました。
6. 私の例④|名古屋と大阪。まだ住んでいない街を、もう守っている
4つ目は、自分でも笑ってしまった例です。
長い目で見ると、私が最後に住むべき街は、大阪だと考えています。私の見立てでは、行政や暮らしのデジタル化が、国内でいちばん進んでいるのが大阪です。何十年という単位で住むなら、そこに乗るのが筋だと思っています。
ところが、いまの私は、こんな材料を集めています。「リニアが開業するまでは、名古屋にいたほうがいい」。
まだ、名古屋に引っ越してもいません。引っ越してもいない街に、居続ける理由を、先に集めています。
何が起きているかは、分かります。名古屋は、時間をかけて調べて、自分で出した結論です。その結論を、「最終的には大阪」という別の結論から、守ろうとしています。現状維持バイアスの「現状」は、いま住んでいる場所だけではありません。いちど自分で決めたことも、「現状」になります。これは、一貫性の原理と重なる部分です。
リニアまで名古屋にいる、という判断が、まちがっているとは限りません。本当に合理的かもしれません。問題は、順番です。結論が先にあって、材料をあとから集めている。その順番で出てきた判断は、合っていても、たまたまです。
名古屋と大阪を、家賃・広さ・築年数・通勤時間で東京23区と比べた統計は、東京の家賃は高すぎる?の記事にまとめました。
7. 4つを並べると、バイアスは賢くなっていた
| 場所 | 自分に言っていたこと | 形 |
|---|---|---|
| 月島 | (何も言っていない) | 選択肢が見えていない |
| 東戸塚 | 慣れるかもしれない | 確かめようのない期待 |
| 海浜幕張 | 収入が上がってから | 堅実に見える先送り |
| 名古屋と大阪 | リニアが開業するまでは | 調べた材料つきの、結論の防衛 |
上から下に行くほど、言い訳の質が上がっています。4つ目には、下調べまでついています。
引っ越しを重ねて、私は、住む場所について、前よりずっと多くのことを知りました。このバイアスがあることも、知っています。それでも、消えていません。知識が増えたぶんだけ、動かない理由を、うまく作れるようになりました。
「現状維持バイアスを知れば、外せる」と書いてある記事は、多いです。私の経験では、知っただけでは、外せません。知っている人ほど、もっともらしい理由を作れます。
8. 動かないほうが正しいときも、あります
公平のために書きます。現状維持が、いつもまちがいなのではありません。
変えることには、本当に費用がかかります。私は東戸塚を出るときに、違約金を払いました。引っ越し代も、初期費用も、かかりました。慣れた店や道を、いちから作り直す手間もあります。この費用をきちんと数えて、「それでも、いまのままのほうが得だ」と出たなら、それは、バイアスではなく、計算です。
見分ける目安は、2つです。
- 変えた場合の損得を、数字で書き出したことがあるか。書き出していないのに「いまのままでいい」と感じているなら、バイアスをうたがいます
- 動かない理由に、数字か期限がついているか。「そのうち」「落ち着いたら」「上がってから」には、どちらもついていません
住む場所を変えたときのお金と時間の差を、地元の都道府県ごとに数字で確かめるなら、地元に帰りたいのは甘え?の記事の計算機が使えます。
9. 見抜き方と、守り方
9-1. 入れ替えて、聞く
「いま、名古屋に住んでいたとして、わざわざ海浜幕張に引っ越すか」。
私の答えは、引っ越さない、です。それなら、いま海浜幕張にいる理由は、「すでに、いるから」だけです。
契約でも、仕事でも、同じ形で聞けます。「いま、この契約をしていなかったら、新しく申しこむか」。申しこまないなら、続けている理由は、現状維持だけです。哲学者のボストロムとオードが「逆転テスト」と呼んだ考え方に、近いやり方です。
9-2. 「〜してから」に、数字と期限をつける
「収入が上がってから」を、「月に、いくらを、何か月続けたら」に書き直します。あわせて、「いつまでに届かなければ、届かなくても動く」を決めます。書き直せない条件は、条件ではありません。
9-3. 体の反応を、証拠として数える
眠れない。朝、起き上がれない。その場所に帰るのが、気が重い。東戸塚の私は、これを「そのうち慣れる」で上書きしました。体の反応は、頭の理屈より先に、答えを出しています。
9-4. 自分で決めたことも、「現状」に入れる
時間をかけて出した結論ほど、守りたくなります。新しい材料を集めているときは、自分に聞きます。「これは、決めるために集めているのか。決めたことを守るために集めているのか」。
9-5. 動かない費用を、月額で出す
動く費用は、見積もりを取れば、すぐ目に見えます。動かない費用は、だれも請求してこないので、見えません。通信費なら、乗り換えた場合との差額に、放っておいた月数をかけます。住む場所なら、眠れない夜や、集中できなかった日を、数えます。両方を同じ紙に書いて、はじめて、くらべられます。
10. まとめ
- 現状維持バイアスは、変えたほうが得でも、いまの状態を選び続ける働き。もとにあるのは、得より損を大きく感じる、損失回避
- たいていの場面では、害のない省エネ。問題になるのは、毎月お金が出ていくものと、毎日の体調にひびくもの
- 私の例は、住む場所が4つ。月島(選択肢が見えていなかった22年)、東戸塚(2か月で無理と分かって、「慣れるかもしれない」で1年)、海浜幕張(「収入が上がってから」で、いまも動いていない)、名古屋と大阪(住む前から、居続ける理由を集めている)
- 経験と知識が増えても、バイアスは消えない。言い訳の質が上がるだけ
- 守り方は、入れ替えて聞く、「〜してから」に数字と期限をつける、体の反応を証拠に数える、自分で決めたことも「現状」に入れる、動かない費用を月額で出す
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