「賢い人は同窓会に行かない」という言い回しがある。検索すると、上位には次のような理由が並んでいる。時間とお金に見合わない。マウンティングや比較の場になる。昔の人間関係は、今の自分には役に立たない。今の人間関係を優先したい。
私はその逆をやった人間だ。同窓会には行っていないが、昔の友人には自分から連絡を取って会いに行った。そこに自分のアイデンティティがあるのではないかと思ったからだ。
結果から書く。そこに自分の居場所は見つからなかった。人脈というのは流動的で、ライフスタイルに応じて入れ替わるのが自然だ、というのがそのとき出た結論で、以後この結論は変わっていない。
だから私が同窓会に行かない理由は「賢いから」ではない。一度確かめに行って、確かめる必要がもう無いと分かったからだ。この記事は、よく挙がる理由が当たっているかを先に表にしてから、その順番で書く。
先に結論:よく挙がる4つの理由のうち3つは当たっている。外れているのは「賢いから」だけ
検索で上位に並ぶ理由を、実際に旧友に会いに行った側から見て、当たっているかどうかで仕分けるとこうなる。
| よく挙がる理由 | 行った側から見て | この記事の該当箇所 |
|---|---|---|
| 昔の人間関係は、今の自分には役に立たない | 当たっている。旧友に自分から会いに行って、そこに居場所が無いことを確認した | 私は旧友に会いに行った側の人間だ |
| 今の人間関係を優先したい | 当たっている。人脈は流動的で、ライフスタイルが変われば入れ替わる。それが自然だった | 出た結論:人脈は流動的で、ライフスタイルに従属する |
| マウンティングや比較の場になる | 当たっている。ただし比較が成立するのは「誰に雇われているか」の土俵に乗っている人同士で、乗っていない人には勝ちも負けも無い | 「賢い人」の中身を入れ替える |
| 時間とお金に見合わない | 決め手ではない。費用は計算で出せるが、行くかどうかを決めるのは「確認したい差分が残っているか」のほう | 行くか迷っている人のための損益の式(計算機つき) |
| 賢い人だから行かない | 外れている。私が行かないのは賢いからではなく、一度確かめて、確かめる必要が無くなったからだ | このすぐ下 |
ネット上の「賢い人は同窓会に行かない」論には、共通した構造がある。行かない側を賢い、行く側を賢くない、と最初に分けてから理由を後付けしている。だから読んでいて、行かない自分を正当化したい人には気持ちよく、行くか迷っている人には何も判断材料が残らない。
私の立場は少し違う。行く・行かないの二択より前に、「同窓会で確認しようとしていることは何か」を考えたほうが早い。同窓会は、昔の自分と今の自分の差分を、昔の人間関係に照らして確認する場だ。確認したい差分が残っている人は行けばいいし、別の場所ですでに確認が済んでいる人は行かない。それだけの話で、賢いかどうかは関係がない。
私の場合、その確認は同窓会ではなく、自分で旧友に会いに行くことで済ませてしまった。以下はその経緯だ。
私は旧友に会いに行った側の人間だ
自分のアイデンティティがそこにあると思っていた
大学を出てから、私は会社勤めをしていない。就職活動で証券会社の最終面接まで行って落とされ、学生時代から続けていた古本の転売で食えていたので、そのままこの道で行くと決めた。以来20年近く、自宅で一人で働いている。
一人で働いていると、自分が何者なのかを外から確認する機会がない。会社員なら肩書や部署や同僚が、毎日それを代わりにやってくれる。私にはそれがなかった。だから、昔の友人の中に自分の居場所があるのではないかと考えた時期がある。
それでFacebookで連絡を取り、会いに行った。相手が悪かったわけでも、話が弾まなかったわけでもない。ただ、そこに自分の居場所は無かった。相手の人生は相手のライフスタイルに沿って進んでいて、私の人生は私のライフスタイルに沿って進んでいた。共通していたのは「かつて同じ時間を過ごした」という一点だけで、その一点は、今の互いにとって何の機能も持っていなかった。
出た結論:人脈は流動的で、ライフスタイルに従属する
この経験から出た結論は単純だ。人脈は固定資産ではない。ライフスタイルが変われば、付き合う人間は入れ替わる。それは薄情なことではなく、自然なことだ。
逆に言うと、昔の人間関係の中に自分の居場所を探しに行くというのは、ライフスタイルが変わったのに人脈だけ据え置こうとする行為で、うまくいかないのは当たり前だった。うまくいかないことを確認できたのは収穫で、それ以降、私は昔の人間関係に何かを期待しなくなった。
母校が4つある人間に「同窓会」は成立しない
もう一つ、私が同窓会と縁が薄い構造的な理由がある。母校が多すぎるのだ。
中学は千葉の全寮制の学校に3年いた。高校は茨城の私立だった。そこから日本大学の短期大学部に入り、東京電機大学に編入して4年制大学の卒業資格を取った。中学から数えて母校が4つある。
4回も母集団を乗り換えると、どの母校の同窓会に行っても、自分は「途中から来た人」か「途中で出ていった人」になる。同じ3年間、同じ4年間を通した人たちの間にある共通の記憶に、私は部分的にしか参加していない。
この構造は、転校が多かった人、編入した人、中退して別の学校に入り直した人にはそのまま当てはまると思う。そういう人が同窓会に気が乗らないのは、賢いからでも人付き合いが悪いからでもなく、単にどの同窓会にも「完全な当事者」として座れる席が無いからだ。
私に関して言えば、そもそも同窓会が企画されていたのかどうかも知らない。知らないところで開かれていたのかもしれないが、知った所で参加しないと思う。行かないという意思決定をしたというより、行くという選択肢が最初から手元に無かった、というのが正確な表現になる。
同窓会で確認できることは、すでに別の場所で確認していた
ここが、この記事で一番書きたかった部分だ。同窓会に行かなくても、同窓会で得られる情報は別の経路で入ってくる。
同世代の「その後」は、行かなくても見えている
同窓会の実質的な機能は、同じスタートラインにいた人間たちの現在地を一覧することだ。誰がどこに勤めていて、年収がいくらで、家を買ったか、子どもがどこに進学したか。
これは、行かなくても分かる。私の周りで言えば、大学で専攻した分野にそのまま就職した同世代は、就職時には勝ち組ともてはやされていたが、その後の業績悪化で部署が閉鎖され、配置転換で別の仕事に回されていて、今はしんどそうだ。一方で、就職後に静岡の僻地に飛ばされて寮に入った知人は、そこで自活する力が上がり、どこでもやっていける人間になっていた。
この二つを並べると、就職時の評価と20年後の状態は逆転している。同窓会に行けば、この逆転をもっと大量のサンプルで確認できるのだろう。だが、私はもう結論を持っている。追加のサンプルを取りに行っても、結論は変わらない。
「誰がどこの会社・子どもがどこの大学」の世界は、もう抜けている
私は千葉の北柏という街で20年育った。近所の話題は「誰がどこの会社に勤めている」「誰の子どもがどこの大学に進んだ」ばかりで、20年住んでもまるで変わらない閉鎖的な場所だった。月島に引っ越したとき、そういう話をする人がいない、近所付き合いをしなくても生活が成立する世界があることに驚いた。
同窓会というのは、私にとっては北柏の近所話をもう一度やる場所に見える。あの世界を一度出た人間が、わざわざ会費を払って戻る理由が無い。これは同窓会が悪いという話ではなく、私の居場所がもうそこには無いというだけの話だ。
「賢い人」の中身を入れ替える:頭の良さではなく、買い手を選べるかどうか
ここまで読んで、「賢い」という言葉が一度も自分に対して使われていないことに気づいた人がいるかもしれない。私は自分を賢いとは思っていない。高校の偏差値は35で、大学は編入で入り、就職には失敗している。
それでも「賢い人は同窓会に行かない」という言い回しが指しているものが何かは分かる。頭の良さではない。自分の労働と判断の買い手を、自分で選べる状態にいるかどうかだ。
同窓会で行われている比較は、ほぼすべて「誰に雇われているか」「どこに属しているか」の比較だ。買い手が一つしかない人間同士が、その買い手の格を比べ合っている。買い手を複数持っている人間、あるいは自分で買い手を作っている人間にとって、この比較は成立しない。比較の土俵に乗っていないから、勝ちも負けも無い。
私が会社勤めをしていないのは、この土俵に最初から乗らなかったということだ。そこに賢さは無い。ただ、乗っていない人間にとって同窓会が空虚に見えるのは構造上必然で、「賢い人は行かない」というのは、この構造を外から眺めた人が付けた雑なラベルだと思っている。
この「買い手を選べるかどうか」という物差しは、底辺とは何かを定義した記事でも同じものを使っている。収入の多寡ではなく、買い手の数で人生の自由度が決まる、というのが私の一貫した立場だ。
行くか迷っている人のための損益の式
ここまでは私の話で、「行かない側の結論」だった。ここからは、行くか迷っている人が自分で判断するための道具を置いておく。
費用側は4項目で全部出る
同窓会の費用は、会費、往復の交通費、拘束時間、そして二次会以降の追加出費の4つに分解できる。このうち一番大きいのは拘束時間で、これを金額に直すには自分の時給が要る。会社員なら手取り月収を実労働時間で割ればいい。副業や自営の人は、その時間に本来やっていたことの単価で置く。
費用側は前提を入れれば必ず金額になる。下の計算機に自分の数字を入れると出る。
便益側は「確認したい差分が残っているか」で決まる
問題は便益側で、これは金額にならない。便益は一つしかない。「昔の自分と今の自分の差分を、昔の人間関係に照らして確認したいか」だ。
これが残っている人は、行ったほうがいい。私も、残っていたから旧友に会いに行った。行って確認して、無くなった。一度も確認しないまま「賢い人は行かない」というラベルで自分を納得させている人は、確認していない分だけ、この問いが何年も残り続ける。それは費用側の合計より高くつくと私は思う。
逆に、すでに別の場所で確認が済んでいる人、比較の土俵に乗っていない人、母集団を何度も乗り換えていて席が無い人は、便益がゼロなので費用がいくらでも行く理由が無い。
同窓会の損益計算機
費用側を自分の前提で出す
会費(円)
往復交通費(円)
二次会以降の追加出費(円・行かないなら0)
拘束時間(時間・移動と準備を含む)
自分の時給(円・手取り月収÷実労働時間、または副業単価)
初期値はフォームの動作確認用で、根拠のある相場ではない。必ず自分の数字に置き換えること。
この計算機は、行くべきかどうかを判定しない。費用側を数字にするだけだ。便益側の問いに答えるのは自分で、答えが「残っている」なら、合計がいくらでも行く価値がある。
結論:知らないところで企画されていても、行かない
私の同窓会に対する現在地をまとめる。
旧友に会いに行ったことはある。自分のアイデンティティがそこにあると思ったからだ。行ってみて、居場所は無かった。人脈は流動的で、ライフスタイルに応じて入れ替わるのが自然だと分かった。母校は4つあり、どの同窓会にも完全な当事者として座れる席は無い。同世代のその後は、行かなくても見えている。比較の土俵には最初から乗っていない。
だから、私の知らないところで同窓会が企画されていたとしても、その存在を知ったところで参加しないと思う。これは賢い判断ではなく、確認が済んだ人間の自然な帰結だ。
「賢い人は同窓会に行かない」という言葉を検索してこの記事に来た人に一つだけ言えるのは、行かないことを賢さで説明しようとしなくていい、ということだ。確認したいことが残っているなら行けばいい。残っていないなら、それは賢いからではなく、もうそこに自分がいないからだ。
一人で20年働いてきて、人間関係をどう組み直したかについては在宅で一人で働くことについて書いた記事に、人脈を含めて人生を「金・場所・職・人」の4層に分解して撤退してきた経緯は人生を諦めることについて書いた記事に、それぞれ書いている。
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