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細野悠輔自己紹介/当サイトを設立した趣旨

この記事は約36分で読めます。
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はじめまして、細野(ほその)と申します。

 

このページでは僕の詳しいプロフィールを紹介していきます。どんな経験をしてきたのか、なぜ今のような活動をするに至ったのかをまとめていますので、細野ってどんな人って思った方は目を通してみて下さい。

僕がどんな人生を過ごしてきたか語ります

僕は1983年にイギリス・ロンドンで生まれ、3歳の時に日本に帰国をしました。当時の記憶はなく、英語は話せませんw

海外で生まれた理由は両親の仕事が理由で、日本に帰国をしてからは千葉県で20歳まで過ごしました。

 

僕の価値観の元となる経験は幼少期から成人をするまで過ごした、千葉県での体験が元になっています。

 

僕は兄弟姉妹がいない環境で育ったことがあり、兄弟がいる人であれば自然と身につけるであろう、人との間の取り方が上手ではありません。

現在でも知らない人がいる場に出ていったり、不慣れな土地に行くのはとても抵抗があり、自宅で過ごすのが一番居心地がいいと感じている程です。

 

物心がついた頃から、周りの人と上手にバランスを保って生活するのがとてもしんどくなりました。

 

普通にやり取りをしているだけなのに誤解をされる
なぜか実態とは違う解釈をされて批判の対象となる

 

自分が意図しているのと異なる事が頻繁に発生をし、なぜ自分はこんなにもしんどい人生を過ごさなければならないのか?と悩むように。

集団生活がどうしようもなく苦手

僕は中学受験をして、全寮制の中高一貫教育の私立に進学をしており、そこで朝から晩まで同級生との共同生活をしていました。

当時生活をしていた全寮制の学校

今でこそ良い経験をしたと思っていますが、ここでの生活は地獄で、入学して3日で辞めたいと思ったのを覚えています。

 

どんな環境だったのかというと

テレビもマンガもゲームも禁止
スマホもない
学校の外に出ることが出来ない
毎日が食うか食われるかであり、自分がいじめのターゲットにならないか怯えながら過ごす。

といった具合で、思春期の子供からすると気が狂いそうな場所だったのです。

 

学校は千葉県の山奥にあり、物理的に都会とは切り離されています。

学校には経済的に豊かな家庭の子供が多く、親が会社経営者だったり、芸能人の子供、大企業の役員など、社会的地位が高い家庭の子供がたくさんいました。

 

そんな特異な環境だからこそ、僕も含め、自分が特別、わがままが通るのが自然という価値観の人間が少なくなく、毎日のようにいざこざが発生をします。

 

目立つ格好をしていたり態度が大きいと上級生の人から呼び出される
私物が無くなったり、壊されたりして嫌がらせを受ける
ルームメイト全員から無視をされる

 

こういった事が頻繁に起きていました。

 

今と異なり、学校を辞めたり、いじめられている事を相談するのが一般的でない時代ですから、親に対して学校を辞めたいと訴えても聞き入れてもらえません。

そんな環境でなんとか3年間を過ごし、高校は別の所に通いたいと思い、中学2年に入った辺りから外部受験をするための勉強を開始しました。

普通になりたいと願った高校生時代

しかし元々勉強が得意だったわけでもなく、好きでもない人間ですから、なかなか偏差値が伸びていきません。

 

高校は中学とは異なり普通の人が集まる平和な場がいいと思い、東京の高校への進学を希望していました。

僕が当時住んでいた千葉県の田舎町からは東京まで30分ほどで移動ができ、十二分に通学が出来る位置にあったのです。

 

しかし親が当時通っていた塾からおすすめをされた茨城県にある高校を受験することが決まり、学校見学もした上で「絶対に通いたくない」と何度も親に訴えたにも関わらず、僕はこの高校に進学することになります。

進学した高校。尊敬できる教師が一人もいないという経験をする。偏差値は50中盤程度あり、そこまで低レベルの高校ではなかったのだが…

このページを読む方の中には田舎に住まれている方もおられると思うのですが、僕は田舎が心の底から大嫌いです。

それはなぜかと申しますと、田舎には異質な存在を排除するために集団でレイプをする文化があるからです。

 

少し前に都会からの移住を受け入れた街が、転居してきた住民にゴミ捨て場を使わせなかったり、集団で常識を逸脱した嫌がらせをしたとして訴訟が起きたことがあります。

 

僕はこれは田舎を象徴する事件であり、これと似たような事象が日本全国の田舎で繰り返されており、僕のように周りの人と異なる価値観を持つ人間を苦しめていると感じています。

 

僕の住んでいた千葉県の田舎街もそうだし、中学の頃通っていた全寮制の学校も全て田舎。

高校も大学も僕が通っていたのは田舎にある学校でした。

 

田舎には娯楽がありません。

であるがゆえに人の関心は、他人の噂話やあら捜しといった具合で、あまり生産的でないことに時間が使われていたりするのです。

 

僕は子供の頃から、周りの子とは異なる価値観で動くことが多い子供でした。

 

小学校の頃には電車で塾に通い、網棚に放置されているジャンプ(週刊漫画雑誌)を持ち帰り、ジャンプを買いたいけどお小遣いが少なくて読めない友達に次の日にプレゼントする
欲しいゲームを買うために、クリアして遊ばなくなったゲームを中古ゲームショップに売り、その売上で新しいゲームを買う
17歳の頃には自分でパーツを組み合わせてパソコンを作る事にハマり、ISDNやADSL(今の光回線みたいなもの)を自分で契約して利用
ネットを通じて知り合った同じ趣味を持つ友達とオフラインで会う

 

今であればどれも珍しいことではないかもしれませんが、当時はネットも普及しておらず、スマホもなく、個人が物を売り買いする仕組みも整っていなかったので斬新的でした。

そして周りと異なる価値観で動くことが多かったからこそ、僕の行動は軋轢を生み出し、批判の対象となったり、友達が離れていくなど、辛い経験を余儀なくされました。

 

もちろんそれらは全て周りのせいではなく、僕自身の振る舞いや考え方に問題があった事も多々あるでしょう。

 

なぜ自分はこれほどまでに周りの人から理解してもらえないのか?

 

これが僕が人生を通じて一貫して悩み続けたことです。

 

どうすれば評価してもらえるのか?
何をすれば自分という人間を受け入れてもらえるのか?

 

学校だけでなく、恋愛でも結果を出すことが出来なかった僕には、居場所と呼べるものが何一つとしてありませんでした。

 

そんな僕の転機となったのは、大学受験を控えて通い始めた東京の両国にある予備校での出来事です。

田舎では出来なかった友達が一瞬で作れた

その予備校では同じ大学に進学を目指す生徒が集まり、勉強をしていました。

 

僕は高校ではほとんど友達が出来ず、浮きまくっていた存在だったのですが、予備校に通ったら一瞬で友達が出来たのです。

 

「細野君、一緒に帰ろう」

「細野君、明日一緒にみんなで勉強をしない?」

 

充実した高校生活をしている人が自然に交わすであろう会話が、何の苦労をすることもなく出てくる世界‥。

 

友達は僕の欠点も知った上で、僕のいい所を認めて評価をしてくれる人たちと出会う事が出来たのです。

(僕自身も彼らを自然と認め、尊敬することが出来る関係性になる事が出来ていました)

 

田舎では出来なかったことが、都会では自然に出来てしまう‥。

もしかして僕が悪いんじゃなくて、僕が普段過ごしている環境が僕に合ってないだけなのかな?

予備校があった両国。東京の多様性に深い感銘を受ける

僕が都会という場所に憧れ、好きになった最初のきっかけがこれでした。

自分だけが必ずしも悪いわけではない‥。そう思えたことで僕の人生には光が差したのです。

 

ネットを通じて出会う友人も東京に住んでいる人が大半で、彼らの家に招いてもらったり、一緒に食事したり、引っ越しを手伝ったりする中で親睦を深めることが出来るようになった。

気がつけば都会に住む友人だけが残り、田舎に住む友人との関係は途絶えていきました。

大学進学、商売の原体験をする

大学に進学をしてからも、友達らしい友達は出来ず、僕の活動の拠点は常にネットでした。

ネットを通じて友達とチャット(今のLINEグループみたいなやつ)を夜な夜なしたり、一緒にエイジオブエンパイアというゲームを対戦する事で、オフラインで満たされない感情を発散していました。

 

ある日ネットを通じて仲良くなった社会人の先輩が、「自分の部屋に転がっているパソコンパーツをヤフオクで売って欲しい」と僕に声をかけてくれました。

先輩は普段は会社に通っており、家に帰ってくるのは夜の8時過ぎ。

 

そこから僕と一緒にチャットをしたり、ゲームをして遊んでいたのですが、一人暮らしをしていることもあり、部屋の整理が課題になっていました。

一方で僕は当時大学生で、18歳の頃より始めたネットオークションで不用品を売るスキルを獲得しており、作業に慣れていました。

 

オークションへの出品と販売代行業。

僕にとってはじめてのビジネスがこの時に始まります。

 

先輩の不用品を売って売上が立つようになると、先輩はその売上の半分を僕に報酬として支払ってくれました。

当時は今と異なりパソコンがとても高価だったので、自分でパソコンのパーツを組み合わせて自作パソコンを作るのがブームだったのです。

先輩が当時住んでいた平井。現在では再開発が行われ、より洗練された町並みへと進化している

先輩が僕に販売委託をしてくれたパソコンパーツは、高い値段で売れていき、その売上で学校に通う定期代、学食で昼食や夕食を食べるための食費、教科書を購入するお金、学費などを自分で支払うことが出来るようになりました。

 

また先輩から口伝てに僕がヤフオクで不用品販売をやってくれることが伝わり、他の人からも仕事が僕に入ってくるようになりました。

 

自分の力でゼロからお金を生み出すことが出来る‥。

この事は何をやっても結果を出すことが出来なかった僕の最初の成功体験となります。

 

普通の人であれば大学でサークルやアルバイトなどを通じて自分の適性を見つけていくと思うのですが、僕の場合は違いました。

 

最初に入った大学では建築を専攻。

最初に進学した大学。内部進学制度を使い、一般受験をせずにズルして入学

しかし製図を書いたり、模型を作ったりする作業が苦痛すぎて、とてもではないがこれを仕事にできないと挫折。

専攻を途中で変更し、違う大学に編入学をしています。

編入学先の大学。現在では少子化の影響を受けて、所属していた学科とキャンパスは閉鎖されている

次の大学では主にプログラミングを専攻していくのですが、ここでもプログラミングを面白いと思うことが出来ず、挫折。

自分と学問の適正が常々ないんだなと痛感をする事になります。

 

コミュニケーションが下手
学校の成績が良くない(講義に真剣に向き合わなかった結果、2回留年をした)
特別なスキルを身につけているわけでもない

 

このような人間が社会に出るあたって、就職活動でも苦労をすることになります。

 

きちんと勉強をしている人であれば、研究室から推薦所を貰ってサクッと内定を取れたたでしょう。

アルバイトを通じてコミュニケーション能力を獲得した人であれば上手に面接をクリア出来たことでしょう。

 

しかしそのどちらもこなせていなかった僕は、面接で何度も落とされ、自分が行きたいと思っていた会社から内定を取ることが出来ませんでした。

 

自分の行き着く先はブラック企業のみ‥。

 

このように思っていた矢先に、中学時代の友人が連絡をしてきて起業をしたいので一緒にやらないか?と声をかけてくれました。

起業と挫折

会社で活躍をしている自分の姿が1ミリも見えなかった僕は、逃げるように友人と起業する道を選びます。

そこからは友人の大学や六本木に借りた作業スペースで、毎日プレゼンの資料を作ったり、ホームページを作る作業に取り組むことに。

当時の活動拠点。月額1万円以下で六本木を作業場にする事ができた

学生時代から情報工学が専攻だからホームページぐらい作れるよね?と言われることが多く、パソコンが好きだった僕には自然とそういった仕事が任されていたのです。

 

しかし実際の僕はホームページを作るのも得意ではないし、資料作りをするのも楽しいと思えなかった。

会社の事業が軌道に乗る先行きが見えなかった僕は、1ヶ月もせずに耳鳴りがするようになり、このままこれを続けていたらやばいなと思うようになったのです。

 

そんな時にヤフオクの延長で続けていた、ネットを利用した古本転売の情報発信をしているブログの運営者から「会わないか?」とメールが届きました。

古本転売での稼ぎはその時点で月に30万円を超えていたので、これを深めていけば生活が出来るんじゃないかと思った僕は、その後師匠となる人に会いに行くことを決断します。

 

師匠は僕の現状を見た上で、商売を伸ばすために販売単価と販売数を考える必要があると教えてくれました。

当時の僕はブックオフの100円コーナーで本を仕入れて、それを800円〜2,000円で売ることを延々と繰り返していました。

 

このやり方は資本が少なくても実践できるし、赤字になったとしても損失が極めて限定的というメリットがあります。

しかし誰でも出来るやり方なので差別化が出来ないし、収益が頭打ちなりやすいという問題が。

実際僕は週に7日仕入れに出かけて、毎日150冊の書籍を発送しても利益が30万で頭打ちになっていました。

 

師匠の言うことが的を得ていると思えたこと、人生で初めてこの人の言葉を受け入れて行動をしたいと思える人と出会えたこと。

この事がきっかけとなり、僕は友人と起業した会社を辞め、専業転売ヤーになる事に。

 

師匠と出会ってからの僕は、水を得た魚のように毎日多くを学び取り、売上もどんどん伸びていきました。

古本以外の商材として、CDやゲームも取り扱うようになり、単価の高い商品にチャレンジするように。

ライバルと差別化をするために、中古商品を修理して販売するという応用テクニックも駆使して、安定的に収益を出せるようになっていきました。

 

その後、意気投合した僕と師匠は、長野県に会社を設立するまでになります。

会社を設立した長野県佐久市。現在では開発が進み、都会的な町並みに変貌を遂げている

しかしあれほど憧れ尊敬していた師匠と一緒に仕事をするのが、段々としんどくなっていきました。

 

僕は同じことを延々と繰り返すのが苦痛で、自分がやらなくていい作業であれば人に任せたいという価値観を持っています。

しかし作ったばかりの会社には人員が足りなかったり、仕組みが出来ておらず、全てを自分たちでこなさなければなりません。

 

僕は週に1回東京から長野に通勤をしていたのですが、他のメンバーは週6で交代で働いていました。

その事から僕の仕事量は少ないのに、自分たちは長く働いて不公平という不満が出るようになり、僕に対する批判が発生したのです。

 

僕はSEO対策や広告出稿を担当していたので、他のメンバーとは異なる仕事を日々して会社に貢献しているという自覚。

しかし他のメンバーはどんな仕事をしているのであれ、作業量は平等であるべきという価値観でした。

 

当時会社が収益を上げていなかったこともあり、僕は会社から給料を受け取っていませんでした。

なぜ無報酬で働いているのに批判をされなければならないのか全く理解が出来ませんでした。

 

タダ働きしてるのに批判される
師匠と作った会社が軌道に乗る見通しが見えない(現在は年商10億を超える会社になってます)
師匠と一緒にこれ以上一緒に活動したくない(これ以上師匠を嫌いになりたくない)

 

このように思い始めた僕は、師匠の会社を辞めることを告げ、再び1人になります。

 

その後はネットで情報発信をして、自分が結果を出した転売のやり方を教えたり、ネットショップの集客に悩んでいる人にコンサルをしたり、アフィリエイトに取り組んだり、輸入にチャレンジしたりと色々なことに挑戦をしました。

 

なぜ情報発信をしようかと考えのかと申しますと、内容がスカスカのマニュアルが高額で販売されていたからです。こんなレベルの低い商品が売れるなら、自分であればもっといいものを作れる。参入したら簡単に成功できると考えたのです。

 

ところが、実際に発信をやってみると、サイトの構築や、メルマガの執筆、You Tubeの動画撮影など、なかなか思うように見せたい発信を行うことが出来ませんでした。

自分の力だけでは成功が難しいと思い、発信で成功している人のコミュニティに参加をして、主催者の人や参加者の人と交流を取るようになりました。

 

その結果、コミュニティの中で実力を認められて講師を任されたり、運営を手伝うスタッフを経験したりと、着実に経験値を積み重ねていきました。コミュニティの中では副学長という立場を与えてもらい、コミュニティに入ってきた人の指導や、担当する講師の割当をする仕事をしていました。

 

実力がある人のコミュニティを補佐する仕事も学びが多いものでしたが、自分で集客をして教育をしたお客様に自分が正しいと思えることを提案したいという思いが日に日に強くなっていきました。

 

僕の人生を振り返ってみても、

他人が作った枠組み → 自分を上手に表現できず苦しむ
自分で作り上げた枠組み → 自分らしく過ごすことが出来、自分が望む評価を得ることが出来る

という経験を繰り返しており、自分は会社や組織には向いていない人間なのだと感じています。

 

そういった経験から、僕と同じように、学校や社会に自分の居場所を見いだせなかったり、今の仕事の延長に幸福な未来を信じることが出来ない人に向けて役立つ情報を提供できるのではないか?と思って始めたのがこのサイトです。

 

このサイトは調べてもらうとわかりますが、2012年頃に設立。

すでに10年以上運営している老舗サイトとなります。

 

途中何度もコンテンツを入れ替え、現在の形に洗練をさせてきました。

 

その過程で多くの方が僕のことを知ってくださり、会いに来てくれたり、僕の有料コンテンツを購入してくれたりしました。その事で僕は会社組織に属すことなく、生活をしていけるようになったのです。

 

とはいえ、ここまでの生活は散々で、自分が成功者だとは思っていません。

30歳まで彼女なし

プライベートに目を向ければ、30歳になるまで女性と交際した経験がゼロでした。

大学を25歳で卒業して就職することなく、転売ヤーになってしまった事もあり、社交性を身につける機会や、人との出会いを作る事が全く出来ませんでした。

 

積極的に行動を起こし、ナンパだったり、相席屋に出向くなどすればよかったのかもしれませんが、当時の僕にはそういった視点がありません。

元々お酒を飲むのもそんなに好きではありませんし、人がいる場所に積極的に出ていくのは不得意。ナンパなんて出来るはずがありませんw

 

そんな僕でもビジネスセミナーに参加して、懇親会の場で名刺交換をしていくと少しずつ知り合う人が増えていきました。

ビジネスに興味を持つ女性というのは数は多くありませんが、少なからずいて、そういった場で少しずつ女性とも話せるようになっていったのです。その中で知り合った一人の女性が、僕と交際をしてくれるようになり、異性と交際が出来るようになりました。

結婚

ビジネスを頑張ったことで、学生時代に憧れていた年収1000万を稼げるようになりました。

最初に付き合った女性とは半年もせずに別れてしまい、独り者としての生活を続けていた僕は、このまま一人で一生を暮らしていくことは嫌だなと考えるようになりました。

 

20代の頃は結婚なんて絶対しないと考えていたのですが、30代半ばに入ると、独身生活は十分に楽しんだなと思えるようになり、自分のためだけに頑張る事に張り合いを感じなくなったのです。

 

35歳になる直前の春に、結婚相談所に入会し、11ヶ月の活動を経て結婚をしました。その間70名以上の方とお見合いをし、断られ続けました。

苦労の上で手に入れた結婚生活は、精神的な支柱となり、仕事面だけでなく、私生活も充実させてくれるはずでした。

離婚。(メシウマ)

結婚当初から歩み寄ることが出来ない価値観が、夫婦間でいくつもあり、それを埋めるために努力を続けていました。

 

僕は結婚というのは、妻という他人を、一生かけて家族にする活動だと考えており、大なり小なりの価値観の不一致は当たり前だと考えていました。

結婚相談所に属していたこともあり、恋愛結婚とは異なり、お互いのフィーリングが合致したら入籍するのがマナーだと僕は考えていました。

 

なので、当時の妻と出会って2ヶ月ほどで求婚をし、入籍。お互いのことを深く知ることなく、勢いで結婚をしてしまったのです。

 

最初の間は日中は妻が会社に通うために、朝出かけて夕方に帰ってくる生活をしていました。夫婦間の時間が物理的に隔離されていたたため、小さな衝突はあっても、それが致命的な溝となる事はありませんでした。

 

しかし結婚をして2年が過ぎようとした頃に、妻が会社を辞めて、僕の会社に入ることになりました。妻は手先がとても器用だったので、カバンの修理を仕事にすれば、今の会社以上の収入を稼げるようになるし、平日に旅行に行けるようになり、自由度が上がると考えたのです。

 

結果として、カバンの修理業はトントン拍子でうまくいくようになったのですが、規模拡大をするために、人を雇ったり、作業場としてオフィスを借りようとすると、生活バランスが崩壊しておかしくなっていきました。

妻の体調も悪くなっていき、入院、手術を行うことに。そんな矢先、僕に愛想が尽きた妻が離婚届を持ってきて「これを書いて欲しい」と言ってきたのです。

 

この時の僕は、組織を大きくする事に疲れきっていました。妻との関係性をこれ以上改善することは不可能と考え、離婚届に記入をして提出。

あれだけ苦労をして手に入れた結婚生活は、2年半で崩壊をしてしまいました。

都落ち(メシウマ)

妻と離婚するまで東京の中心地で生活をしていました。銀座まで歩いていけたり、東京駅まで15分程度で行けたりと、何一つ不自由のない生活でした。

しかし結婚をしてから私生活の充実に力を入れた結果、ビジネスの勉強やアウトプットにかける時間が少なくなり、成長が鈍化。収入も下がっていきました。

その事から東京の生活を維持する事が難しくなり、都外に引っ越すことに。お客さんからも好評だったタワマンライフは20年で終止符を打つことになりました。

当時住んでいた部屋からの眺め。このレベルの物件に住もうとするとどんなに安くても家賃30万〜40万円以上は必要。

東京を出たことで少なからず不便にはなりましたが、車を持っているためそこまで不自由をしているわけではありません。家賃も3分の1になり、駐車場代も半額以下になりました。

生活コストが安くなったことで、可処分所得は多くなりました。ただその反面、駅からの距離は徒歩1分から25分になり、近辺には24時間営業のスーパーがないなど暮らしは不便に。タワマン時代のようにゴミをいつでも出せる環境でなくなったのも苦痛でした。

最初の間はこんな辺鄙な場所で生活しないといけない自分が惨めで悔しくて毎日涙が流れました。しかし腐っていても仕方がないし、ここまで堕ちたら上がっていくだけと考えを切り替えました。

生活に慣れてくると不便なら不便なりに適合する事ができるようになっていきました。

 

もちろんお金の問題さえ解決するのであれば、港区や千代田区のタワマンで再び生活がしたいです。ですが、それには年収レベルで3000万〜5000万以上は必要になってくるので、今の自分のレベルだと厳しい。

 

今の住居はコスパに全振りをした街で、物価も安く、リサイクルショップには高品質な中古品が並んでいます。

僕はこれまで10万円を超える靴や6万円を超えるTシャツを買っていたのですが、現在は2000円以下で購入したZARAの中古スニーカー、ユニクロの2000円のTシャツになりました。

10万円の靴から定価6,000円の靴へ。中古ならこの値段で買えてしまうことに驚く

実際に使ってみると、ZARAのスニーカーも悪くないし、ユニクロの服は実用的です。ハイブランドの服を大事に2年、3年と着るよりも、ユニクロの服を1シーズンで使い捨てていくほうが服のシェイプやトレンド感を程よく取り入れられるので、こちらの方が経済力に関係なく再現性があります。

もちろん10万円の靴には高い説得力がありますし、それを理解して履きこなす自分が好きでした。ハイブラの服も同様です。デザイナーが考えた絶妙なバランスが秀逸であり、高い芸術性があります。

履いていた靴。アホみたいに高い値段だが素晴らしい仕上がり

でも10万の靴も半年も使えばすり減って駄目になるし、6万のTシャツでも1シーズンも着ればよれてくるし、1年後には時代遅れなデザインになってしまう。

この事に気がついてから僕は、ハイコストな商品を低頻度で購入するよりもローコストな商品を高頻度で購入するほうが、QOLは上がると考えるようになりました。

 

現在は使っているものの大半が中古商品です。車も中古ですし、家電も中古です。住居は築年数が30年を超えるボロマンションです。

でも室内は空気清浄機のお陰で清潔無臭ですし、車も自分でコーティングやメンテナンスを行っているため、きれいで快適な状態を維持できています。

 

都落ちは田舎の生活をバカにしていた僕のプライドをズタズタにしましたが、ここで学んだ生活力は僕を確実に成長させました。今の僕は最小の投資でタワマンの快適性に負けないライフスタイルを構築する力を手にしています。

電力や通信費も一括契約だったタワマンから、個別契約になった事で真剣に比較。全国でも比類のない安さと品質を誇る業者を見つけ、誰から営業をされても「僕が契約している業者の方が安くて条件が良いです。」と論破できるまでになりました。

 

何よりも大きかったのは、底辺の生活を知った事で、お客様の生活をより深く理解できるようになったことです。騒音の問題や立地の悩みなど、同じ予算でも戦略的に向き合えば解決できることがわかりましたし、その人のライフスタイルに最適化する事が何においても大事。

だから僕は「東京以外は全部ゴミ」なんて発言はもうしませんし、どのような土地に住んでいたとしても、その人やその人の家族が快適で文化レベルの高い生活を手にするために何ができるか?を一緒に考えることが今はできます。

 

人間は失敗から学びます。損をすることで上手にお金を使えるようになります。

東京に住んでいた頃の僕は、快適すぎる生活に甘えて、お金を雑に使っていました。今は血の1滴、一枚一枚を大切に使い、この国で生活できることに感謝をしながら暮らしています。

 

今後も僕は費用対効果の高いエリアに引っ越しを繰り返しながら、タワマンで暮らせなくても(もちろん暮らしたいのだけれど)快適性と安全性を毀損しないライフスタイルを構築していくでしょう。

僕が発信活動をやる理由

僕は自分が体験したり、経験してきたことが商売になっており、その事が周りの人と差別化に繋がっています。自分の体験をもとに課題を見つけて、その課題を解決するために様々な手段を講じて行動を起こしました。その結果、他の人と違う視点、仕組みを作り上げて自分の人生をコントロールできるようになっています。

 

そんな僕が情報発信をする理由は、面白い人との出会いです。

普通に生きていたら出会えない人との出会い。

 

例えば僕のお客様に、日本人であれば誰でも知っているアニメスタジオで勤務されているイラストレーターの方がおられます。

また別の方は、野菜を育てる農家だったり、北海道で牧場を経営されている方だったりと、普通に生活をしていたらまず出会うことが出来ない方がたくさんいるのです。

 

会社員として現役で活躍されている方とも多々出会い、自分よりも社会的地位や学歴が高い方もたくさんお客様になってくれました。会社経営をされている方から指名を貰って、コンサルもさせて頂けるまでになりました。

 

そういった、普通に生きていたら絶対に出会えない方達との交流は、確実に僕の人生を豊かに、面白いものに変えてくれました。

人との出会いや交流が幸福度に直結することは、ハーバード大学の研究でも明らかになっています。お金を稼いでも人との交流や社会との繋がりが失われてしまうと、人は孤独感を感じてしまい、幸福になれないのです。

他の人と僕の違い

僕は本名で発信を行い、誹謗中傷されるリスクや、家族の身を危険に晒すリスクを取ってきました。SNS上には、匿名で発信を行い、アカウント削除さえ行えばいつでも逃げられる状態で発信活動をしている人がたくさんいます。

 

無料の情報を寄せ集めただけのコンテンツが高額で販売されていたり、全く経験や実績がない人が高額なコンサルを販売していたりするのです。

 

僕は実名発信というリスクを取ることで、稼いでいそうな雰囲気を作るのが上手なだけの人と差別化が出来ると思いましたし、質の高い人と出会うことが出来ると考えました。

 

実際サイトをしっかりと読み込んでくれてる方は、僕の熱心なファンとなってくれており、ユニークな経験や仕事をされている方がとても多い。

今後僕は自分の腕を高めながら、色んなバックグラウンドを持つ人と関わっていき、人生を豊かにしていきます。

 

そしてその人たちの人生が少しでも良い方向に向かうように、質の高い提案が出来るように努力を継続していきます。

僕がお金と心の両立を重視する理由

僕は自分の心に余裕があって満たされている状態で、人にも優しくする事が出来ると思っています。

自分に余裕がないのに、人に優しくしたり慈愛の心を発揮するのは難しい。

 

僕に最初のビジネスのきかっけをくれた先輩である鉄川さんは、僕の仕事が軌道に乗り始めた直後に自殺をしてしまっています。

自殺の理由は本人にしかわかりませんが、経済的な理由であると推測しています。

 

当時先輩はバイクの巻き込み事故で体が自由に動かせなくなり、仕事を続けるのが難しくなっていました。事故を起こした相手は運送会社の社員の方で示談を求めてきました。

そして信じられないほど安い金額で鉄川さんと示談をまとめ、去っていきました。

 

僕には会社も家族もある。どうか裁判だけは勘弁してくれないか。

 

言ってることは間違ってないけど、あの時きちんとした対応や処遇を得られていたら別の人生があったんじゃないかと思うんです。

 

鉄川さんは保険に入っていなかったので、事故の治療を自費で受けなければならず、リハビリや適切な治療を受けられずに、足がどんどん悪くなっていきました。

 

元々住んでいた家はルームシェアをしていたのですが、ルームシェアの発起人となっていた人が結婚することになり、ルームシェアは解散することに。

鉄川さんは保証人なしでも借りることが出来る千葉県の津田沼にあるアパートに引っ越しをしていったのです。

 

その後は廃品回収の仕事をしていたのですが、仕事中に車をぶつけてしまい、その修理費用を支払うことにさせられたり(違法)して、どんどん経済的に追い詰められていきます。

 

貯金が厳しくなり、僕にお金をせびってきたり(それまであれば考えられなかった)、ネットを通じた発言が病んだ感じになったりと、明らかにおかしい行動を取っていたのです。

 

しかし自分の生活を守ることで精一杯な僕はその事を誰に相談すればいいかもわからず、放置をしてしまいます。

今であれば生活保護や訴訟すればいいと考えるのですが、当時の僕は大学を出たばかりで知識がありません。

 

結果として鉄川さんを放置することになり、周りに相談する事もなくそのまま時間が流れてしまいます。(お金をせびられたりして付き合うのがしんどいなと感じてしまっていました)

その結果、気がついた時には連絡が取れなくなり、全くネットにも来なくなってしまいます。

 

ある日一緒にルームシェアをしていた別の友人が先輩の引越し先を訪問した所、消臭剤が大量に置かれて鍵のかかっていない部屋だけが残っていたということです。隣の部屋の方に聞いた所「首吊り自殺をされた」と教えてもらったそうです。

 

もしあの時僕が先輩を雇ってあげていたら自殺なんてせずに、今も一緒に笑っていられたんだろうか?

生活保護や支援をする仕組みを紹介してあげてしっかりと自立をサポートしてやれば、別の人生を生きられたのかな?

 

余裕がなかったがゆえに取ってしまった自分の行動は悔やんでも悔やみきれず、ただただ無念です。

 

僕自身も生きる希望や喜びを失ってしまった時期があり、真剣に自殺をすることを考えたことがあります。

 

かつての僕のように稼げるようになったものの、今の働き方で今後の人生を過ごしていってもいいものかと悩まれている方の力になりたい
何かしらの理由で生きることや、頑張ることがしんどくて苦しんでいる人に、もう一度立ち上がる希望やきっかけを作りたい

 

お金を稼ぐテクニックばかりを追求しない背景には、僕自身の失敗を辛かった経験をあなたに味わってほしくないという思いがあるからです。

 

生きるという選択を貫けなかった鉄川さん(先輩)の分まで僕が生き、鉄川さんが叶えることの出来なかった夢も僕が叶えていきたい。

そんな思いを片隅に置きながら、僕は毎日を過ごしているのです。

 

同時にお金が稼げなければ、何も出来ないと考えるようになり、お金を稼ぐことを一にも二にも優先して考えるようになったのです。

これがお金を稼ぐ情報を中心とした情報発信を行っている理由です。

 

稼ぐ力を身に着けながら、生き方を選べない状態から、選べる側に移動をする。

そのためにお金を稼ぐスキルを身に着ける事を第一に提案しています。

 

昨今では景気の後退と物価の上昇が同時に進行する、スタグフレーションが問題になっています。

会社の給料は上がらないのに、食料品や日用品の値段が上がっている。

 

使えるお金が実質的に少なくなっているので、豊かさを感じるのが難しくなっているのです。

 

会社の給料が上がらない以上、否応なしに会社以外で収入を得る手段を獲得する必要に僕らは迫られています。

 

そういった現実に対応するためにも、僕自身が培ってきた錬金スキルがあなたの役に立つと考えています。

終わりに

「行きたい会社がないなら自分で行きたい会社をつくろう」

そう思って起業をし、現在に至ります。

僕のストーリーというのは、一握りの特別優秀な人だから出来たことではありません。

 

多分これを読んでくれてる大半の人よりも、学校の成績も悪かったし、コミュニケーション能力も低かっただろうし、自分を表現する力もありませんでした。

そこから僕なりにもがき、色々チャレンジしてきて今の僕があります。

経験だけならここには書ききれないぐらいしてきています。

 

そんな僕だから、これから自分の人生を切り拓こうとしている人に対して一歩先を歩いている先輩として語れることがあるんじゃないか?

僕のように基軸となる経験があって、きっかけがあればそれをビジネスにして自分を表現できるようになる人がいるんじゃないか?

 

そんな人の応援をしたいし、サポートをやっていきたい。

 

そう思って僕はメールマガジンやYouTubeで情報発信をすることにしたのです。

 

世の中夢や目標があるけど、お金の問題でそれが実現できなかったり、やりたくもない仕事や生活に我慢をして過ごしている人がいます。

 

僕もそういった生活をずっと続けてきて、毎日が嫌でしたし、こんな生活続けたくないとうんざりしていました。

 

そこからたまたまきっかけを得て成功をし、自分の行きたい人生を生き、付き合いたい人とだけ付き合い、時間的な成約にも場所的な制約にも縛られない人生を手にしました。

 

これは僕だから出来たことではなく、僕の考え方や取り組んでいるビジネスの仕組みを伝えたら誰でも同じ結果を出せると考えています。

 

なので僕が取り組んで結果が出た仕組みや

現在進行形で取り組んでいる研究成果をリアルタイムで発表しながら

一緒に成長しながら、夢を実現していきたい。

 

ホント、お金のことなんかで悩む時間は1秒でも早く卒業をして欲しい。

 

そんなことやってる場合じゃないよね。

やりたかったことがあったはずじゃないですか。

 

お金の問題が解決したら、収益性には乏しいけど社会的な意義があることや、自分の好きなことに時間を使う余裕が持てます。

 

そして得てして世の中を面白く、アツくするのは

一見無駄に見えるような活動や趣味だったりすんです。

 

お金の問題を解決してそういう活動に取り組む人が増えたら、きっと世界は今よりも面白く、素晴らしいものになると考えています。

 

だから最初は金の亡者の如く、お金を稼ぐスキルを見について欲しい。

そこから自分の信念や哲学というのが生まれていきますから。

 

厳しいけど、実績がない人や金を持ってない人間の話を周りの人間は聞いてくれません。

 

あなたを軽んじてくるんです。

そういう失礼ない対応って嫌ですよね。

 

これが実績がある、お金があるとわかった瞬間に、周りの態度って豹変します。

 

何よりも誰にも頼らずに生活をしている、本当の意味で自立した人間として尊敬もされます。

 

そこにこれを読んでいるあなたにも到達して欲しい。

 

そのための解決策を考えて、サービスとして提供することにしました。

 

僕のYouTubeを見たことがある人はわかるかもしれませんが、

僕はおかしいことはおかしいと指摘します。

 

間違ったことをやっていたら、それっておかしいから直したほうがいいよって

ハッキリいいます。

 

そういう風に言われるのは年を取れば取るほどしんどく感じるかもしれません。

人によっては僕の指導を厳しいと感じる人もいるようです。

 

ただ僕自身は良くない癖はさっさと治したほうがいいし、自分自身が成長してくれたのは厳しい環境に見を置くことが出来たからだと考えています。

 

当時は地獄でしたが寮生活をしたことで挨拶やお礼が言えるようになりました。

 

意外と挨拶、感謝が出来ない人って多いですよ。

子供ならまだしも大人でね。

 

目標を達成するための姿勢も同様で、アメリカに留学した時、起業した直後にビジネスの師匠を見つけて弟子入りした時。

 

全て厳しい環境でしたが、嫌がらせで自分に厳しくされているのではないとわかっていたので、頑張ることが出来ました。

 

昨今褒めないと伸びないとか、自己重要感を満たして伸ばすという教育方針にスポットが当たることがあります。

 

もちろん入口の部分でそういったものを提供する事が大事な仕事もあると思います。

 

ただ僕がやっていることは教育ビジネスです。

 

教育業というのはビジネスであると同時にサービス業なわけですが、僕にとっては相手の現実を変えて、彼が望む世界に彼の力で到達するきっかけを与えることだと思ってます。

 

言うなればマトリックスのモーフィアス的な存在です。

 

そのためには古い世界の価値観や習慣を引きずっていたらダメなんです。

 

自分のやり方にしがみついていたら成功することは出来ません。

 

僕は相手の言っていることが正しいか正しくないかで判断を決めます。

 

だから例えばあなたが僕と会って、僕が話すことよりもさらに効率的で、メリットがデメリットを大幅に上回る提案をされたら、1秒で採用をします。

 

相手の経験が浅いからとか、自分より若いからとか関係ない。

 

正しけれれば採用、おかしければおかしいと言う。

そんだけです。

 

実際に教える活動をしていても

怒ってもらえる事に価値を感じてくれる人は多いです。

 

大人になると怒ってもらえなくなりますからね。

 

もちろんブラック企業みたいに搾取をして、

相手のセルフイメージを下げることによって

奴隷化をする教育であれば批判をされても文句が言えないでしょう。

 

ただ僕の教育というのは搾取が目的ではなくて、まっさらな心に新しいOSとマインドセットをインストールしてもらうためのもの。

 

だから一旦自我を破壊して、変化を拒む心や、良くない習慣を完全に破壊してもらうという工程が必要なんです。

 

成功するためにはテクニックが必要と考えている人も多いかもしれませんが、

テクニックだけではダメです。

 

優れたテクニックとマインドセットの両方が満たされて、始めて人は進化をすることが出来るのです。

 

そして進化をした自分は、昨日まで出来なかったことが出来るようになり、見えてくる世界が変わり、行動も価値観も成功者と同じになっていくのです。

 

年を取れば取るほど成功をするのは難しくなります。

非常に厳しい指摘ですが、利害関係が複雑になり、会社の立場も上がっていくと、

自分のしたいことよりも、回りのバランスを維持することのほうが大事なっていきます。

 

そうなると経済的にもっと豊かになりたいと思っても、今の生活を手放す恐怖や周りの人への影響が気になり、自分の思いを口に出したり、行動にすることが出来なくなるんです。

 

身も蓋もないシビアな数字を断定してしまうと、25歳ぐらいが一つのラインになります。

 

25ぐらいまでなら変なプライドがないので、素直に行動をして最短ルートで成功が出来ます。

 

ただ25を超えると肉体的にも精神的にも劣化をしていくので、血を吐くような努力をしないと変われません。

 

その代わりまっとうな金銭感覚で生活をしていれば、25も過ぎれば貯金が数百万単位で貯まるので、ビジネスにチャレンジして失敗をしながら自分の道を模索する余裕が生まれるんです。

 

若い人は最初から良い指導者を見つけることが出来ればすぐに結果が出ますが、結果が出たら出たで、逆に次にどうすればいいかアイデンティティクライシスに陥ることがあります。

 

僕がビジネスを始めたのが25歳の時、そこから紆余曲折を経て15年近く起業の世界で生き残ることが出来ています。

 

落ちこぼれからスタートして、死ぬほど勉強して日本のトップ5%まで成り上がりました。

 

自分が成功できた理由も論理的に全て話すことができるので、第三者を自分と同じステージまで引き上げることも容易です。僕は才能で成功した人間ではないから。

 

実際僕とJVしているパートナーの人は、僕とダッグを組んだことで月収が100万を切ることがなくなりました。

 

僕自身もそうですが、一人のお客さんと長くお付き合いすることを前提にビジネスを組んでいるので、僕とタッグを組んだり、僕からビジネスを学ぶことで息の長い仕組みを作ることが出来るんですね。

 

若い時はこの視点がなかったので、刹那的な瞬間最大風速を大きくすることばかり考えていました。

 

ただそれは年齢的にもしんどくなってきたのでつくった仕組みをブラッシュアップしつつ新しいことにもチャレンジをしてどんどん強固な要塞を作っていくイメージで現在は活動をしています。

 

このように何もない所から、自分の理想を持って活動をしてきて、その多くを実現する事が出来た僕だから語れることや見せられる世界があると思ってます。

 

人生変わるか変わらないかなんて一瞬です。

 

一瞬の経験でも強烈で濃い体験をしたら人は変わります。

 

そして僕のメルマガでもYouTubeでも他の人とはちょっと違う強烈な経験が出来ることを念頭に作っています。

 

そんな僕のスタンスやビジョンに共感できた方はメルマガでお会いしましょう。

 

ブログやYouTubeでは話していないさらに深い世界をお見せしていきます。

 

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